あざもちさんの母の手記

私の母の手記を掲載したいと思います。ほぼ原文ままですが、ところどころプライベートな部分は割愛させて頂いてる部分があります。また、人名を伏せているので、わかりづらいところもあるかと思います。 あらかじめご了承ください。


本当は思い出すのも嫌な20年だった。興味本位に聞かれるならば絶対に思い出したくない。このまま風化させたほうが気が楽だ。でも、あなたが気持ちに踏ん切りがつき、それをだれかの役に立てたたせたいと思うのならば、協力しても良いと思いはじめた。

出産が難産で鉗子を使って引っ張り出す時に、左耳のつけ根と右耳の後ろ下に跡が残る。その傷に関しては医者からじきに治るからと説明を受ける。初めての経験なのでその言葉を信じて、生後の乳児検診で小児科の先生からあざのことを 尋ねられても「じきに治るといわれました。」と言っていた。小児科の先生は少し納得がゆきかねるようだったが、私がキッパリと言いきったので、それ以上は何も言わなかった。専門でもなかったので、それ以上は先生も言うことができなかっただろうし、私も産婦人科の先生の言葉を信じたいと思っていた。それでもあざはどんどん広がってゆき、生後6ケ月頃には今の大きさにまで広がった。この時が一番つらかった。不安で不安でたまらなかったし、将来のことを考えると胸がしめつけられるようだった。おとうさんも心配というか、動揺してたとういか、若くて自分で自分の気持ちをコントロールできなかったと思うけど、1回だけ口に出したくもないひどいことを言った。今でもはっきりとその時のことは覚えていて、思い出すだけでも涙が出てくる。それでもおじいちゃん、おばあちゃん、近所の人、皆そんな事おかまいなしに可愛がってくれた。まったく気にしていない風だった。人に相談することもできず、私1人がその事実を胸にぐっとしまい込んだ状態で、人の視線にも神経質になっていたせいか、あなたもしょっちゅう熱を出していた。

生後半年ぐらいしてから、東京のおばあちゃんが父方の人たちにはまかせておけないと心配して、東京の虎ノ門病院で見てもらうように言ってきた。虎ノ門病院は負傷した警察官を大勢治療し、実績もあるということだった。この時、初めて整形外科と形成外科との違いを知った。*注1 病院の診断の結果は、「本人がまだ何もわからない赤ん坊なので、もし治療のあと、自分の手で顔を引っかいたらキズが残るし、それを防ぐためにはベッドにくくりつけておかねばならない」と言われた。その時のあなたはとにかく活発で、おとなしくベッドにくくりつけられておけるようなこではなかったので、おばあちゃん共々がっかりして帰途につく。病院では、本人に分別がついて思春期になったらまたいらっしゃいと慰められた。その時の私はまだ何をどうして良いのかまったくわからなかった。

そこへ思いがけずあなたの妹を妊娠した。子供が出来たのは嬉しかったが、あなたのことを考えると複雑だった。これから先、どんな治療があるのかわからないのに、二人の子供を育てるのは不安だった。それでも子供ができるというのはとにかく嬉しいものです。

しばらくしてまた実家の東京から良い病院があるといってきた。迷わずあなたの妹を佐賀のおばあちゃんに預け、あなただけを東京に連れていった。そこの治療法はドライアイスだったと思う。手術前、手術後の写真をみせられ、確かに薄くなっていたように思われたが、手術の後、熱が出て大変だと聞かされ、また迷う。果たしてあなたがこの手術に耐えられるだろうか。というより私が耐えられるだろうか。医者はしきりに薦めてくれたが東京のおばあちゃんと相談してまた断念する。

東京から戻るとあなたの妹がママーと走り寄ってしっかり抱きついた。佐賀のおばあちゃんも一生懸命妹の面倒を見てくれたが夜になるとおばあちゃんの布団の中でメソメソ泣くので二人で泣いていたと聞き、心がチクチク痛んだ。

小学校に上がり、1年生の時、再び東京から昭和大学の形成が良いと聞く。おばあちゃんが昭和大学の看護婦さんと知り合いであなたのことを話したら、その病院は形成外科では一流であざの治療もしているというので、手術の予約をとってもらう。2学期の途中だったが、思い切って1ヶ月学校を休ませる。今度はあなたの妹も連れていった。小学校の担任の先生に休学中のプリントを用意してもらい、補習授業で無事に乗り切った。大変な思いをした割には手術の効果はなかった。(もちろん、はじめから1回だけでは良くはならないと聞いていたが。)

昭和大学を退院するときに、先生同士の会話の中に佐賀には佐賀医大があると小耳にはさんだ。先生は佐賀医大はではダメだと言わんばかりだったが私の頭の中にはその名前がしっかりきざみつけられた。その先生は自分でなければ治せないと言っているような気がしてちょっとイヤだった。

その時カバーマークの存在を知り、福岡のオリリーの会社の電話番号を聞き、佐賀ではどこで手に入るのかを聞く。はっきり覚えてはいないが、オリリーからとても丁寧な親身な手紙が届いた。感激のあまり、その手紙をしばらく大事にしまっておいた。始めはあなたは嫌がったが私が強制的にカバーマークをした。今思えばあなたの為というより私の為だったのかもしれない。とにかく頬から黒い色を消したいと。でもカバーマークは万能ではなかった。カバーマークをした側としない側では明らかに色が違う。大人ならともかく子供が化粧をするということが不自然だった。どうしてお化粧をしているの?と口にはいわなくても目で語ってる人もいた。あざは消えてもまた化粧という新たなあざが残った。

そのころ、私の気持ちの中に転機がきた。あなたの妹がわけのわからない病気になった。幼児の頃はあんなに元気だったのに、学校に上がるようになって見る見る体が弱くなり、病気がちになった。初めてこの子のことが気になりだした。今まであなたのことで一生懸命のあまり、この子のことは二の次だった。結局肺炎だとわかるまで、なんでこんなに熱がつづくのか、精神的なものなのか、自分の母親としての愛情が足りなかったのかと自問自答し続けた。子供は母親の気持ちが敏感にわかるものだと思う。あなたの妹に申し訳なかったと一生懸命看病したかいがあり(私だけがそう思っているだけなのかもしれないけど)あの子の目がゆったりと安心したような目になっていったような気がした。

あなたの治療が遅々として進まず、大きくなっても治らないのなら、別のことで人より秀でた子になって欲しかった。興味を示すことは何でもさせたし、それをグレードアップさせたかった。ただ、3、4年のころだったか、バレーボールが好きで夢中になっていたころ、私は1年間で止めさせた。結構上手になりかけていたが、運動はカバーマークをしている子供にとって不都合に思われた。汗が出てもタオルでごしごしこすれないし、カバーマークがはげてくることもある。かわいそうだと思ったが、面白さの深みにはまる前にやめさせたほうが本人にとって良いと思った。(あなたがそういうことで苦労することを私が見たくなかったのかもしれない。)おとうさんは何でやめさせるのかと不満だったようだが、こんな繊細な気持ちは男の人にわかるはずもないと思い、あえて説明をしなかった。

佐賀医大で何度も皮膚を削る治療をしたが、しても、してもその効果を実感できなかった。それでもしつづけたのは、この治療と縁を切ったらもう治すすべがなくなる不安からだったと思う。帝京大学のレーザー治療法の記事を新聞で偶然見つけ、すぐに新聞社に電話をし、東京の大学の担当教授の連絡先を聞いたのは、佐賀医大の治療に絶望しかかっていた頃だった。本当にわらをもつかむような気持ちだった。

レーザー治療の効果があり、完全とはいわないまでも、ほとんどわからないようになった今、あなたは恵まれていたと思う。皆にかわいがられたし、あからさまないじめはなかった。(…と思う。)新しい治療法が見つかった時に経済的に援助してくれる人もいた。知能が先天的なものならば、それも恵まれていた。(あなたは自分の努力の結果というかもしれないけれど。)あざがあったということを精神的に乗り越えられた時に、それを誰かの役に立てたいと思い始めたのを聞いてとても嬉しいです。自分だけのことで終わりにしないで、自分が周りの人に助けてもらったのと同じように、助けを求めている人の役に立って下さい。私にできることなら、手伝います。